北国街道のルートについて・北国浜街道の巻〜山貴、的解釈による北国街道(2)〜
以前、私がゲストスピーカーを頼まれたイベントで参加者からこんな質問が投げかけられた。
「北国街道と北国浜街道の違いとは?」
「当該区間は北国浜街道と認識している」
というもの。
ゲストスピーカーと意気込んだはいいものの、北国ガイドの幽霊部員なりたてほやほやだった当時のためかまだ勉強途中であり、付け焼き刃知識を抱えた未熟者がよくゲストスピーカーの役目をやったものだといま感心をしている・・・強心臓だったなと(笑)
なお念のため言っておくとガイドだからって博識・専門家である必要性はない。ガイドに必要なのは最低限度の知識とそれ伝える力だと思っている。博識であるにこしたことはないけど。
そんな事象があって自分自身で調べる・・・というほど大層なものではないが、それについて整理する必要があると感じた。今回はそのことについて記す。
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そもそも北国浜街道とは何か
池亨&原直史:編である越後平野・佐渡と北国浜街道 24(吉川弘文館:出版)によるとこう書いてある。
「北国浜街道」というのはあまり聞きなれないが、出雲崎から新潟をへて村上城下町に至る、主として海岸の砂丘沿いに延びる道に対し、近世になって付けられた名前であり、「浜通り」とも呼ばれる。
越後平野・佐渡と北国浜街道 24(池亨&原直史:編 吉川弘文館:出版) P8より
(中略)
近世にはいると佐渡金銀山と江戸を結ぶ佐渡三道の一つとして北国街道が整備され、出雲崎と小木とが船で結ばれた。こうしたことから出雲崎以北の道が、北国街道とは別に北国浜街道として呼び慣わされたようになったと思われる。
新潟県史ではこう書かれている。
時代によって、或いはどこに向かうかによっていろいろな名前で呼ばれた。高田から海岸沿いに新潟を経て県北に伸びる街道は、出雲崎から太郎代まで会津街道と同じであるが、北国街道、北陸道、庄内道あるいは奥州道、浜街道とも呼ばれた。
出典:新潟県史(通史編3)P388〜389
”最新の情報を仕入れたら訂正しようと思う”ことを条件として今現時点で記すとするならば・・・、出雲崎〜鼠ヶ関が北国浜街道となる。ただし前述記載の本によれば村上までとなっている。
しかし(前述記載した本にも書いて合ったが)後述する「佐渡三道」が先に作られてそこから出羽に向かう街道ができたのならば出雲崎から鼠ヶ関までの北国浜街道に違和感を覚える。
ただこれについてはいつの時代にどの街道ができたかが調べきっていないことから来るものである。私がまだまだ学ぶべき点が多い未熟さゆえのものなのか?
(注)なお時代背景からについては後のエントリー(予定)のところで書くため、今回は近世についての記述をしたい。
佐渡三道
さて以前のエントリーで
佐渡三道をこのように紹介した。
そして佐渡金銀山から産出した金銀の本土集積港を出雲崎にしたことで、北国街道(善光寺街道)を高田から出雲崎まで延伸したことを記した。先立って整備した街道であったがそれにも増して戦略的に重要な脇往還だったことが伺える。
ちなみにここではそれを(自称)第1次北国街道延伸と呼称する。(わかりづらいがこの図で言うところ桃色の部分である。)
この画像は前回のエントリーの際にも掲載したのだが前出の新潟県史によると解釈が微妙に違うようで・・・
さらに出雲崎から寺泊・赤塚・新潟・沼垂を抜けて会津に至る会津街道も整備された
出典:新潟県史(通史編3)P388
と記述されている。ということは・・・
江戸初期の慶長年間の時点ではこちらが正しいように思われる。
(2019.9.1加筆修正)
のちに、後追跡し他の文書を調べたところ新発田城下及び新潟湊から出雲崎の区間について幕府の命名に従えばこの図の通り会津街道であることが「新潟県教育委員会・編」の報告書に記載されている。なおこの報告書の続きに街道の名称についても文が書かれているが、これについては後述する。
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新潟湊の発展とともに
話は現代に戻り・・・皆さんは国道7号と国道8号の起点は新潟市だということをご存知だろうか?そしてその道路元標があるのが昔の新潟湊だった地ににあることを・・・。
ここからいきなりだが私の仮説を述べることをお許し願いたい。新潟湊は平安時代の国津としての「蒲原津」が原型とされているが、新潟湊が繁栄したのは江戸時代に入ってからのこと。
江戸前期に堀直寄が長岡藩統治の時代に新潟湊の整備を行い、また藩内の往来を整備(長岡から北国街道を通り新潟湊まで行くと遠道になるので、三国街道地蔵堂宿から北国街道横道なるバイパス道路を整備)し、新潟湊を商業の中心とした政策を行った。
そして東廻り航路&西廻り航路が開発された寛文年間(1670年代)より新潟湊が整備され、舟運とともに北前船寄港地として発展した様子を見ると、江戸時代中期では新潟湊の地位は出雲崎より上になった可能性が高い。
そこで三国街道と会津街道(越後街道)の終点が出雲崎で、北国街道の終点が新潟湊だった可能性が高いのである。行き先に応じて街道の名前が変わり重複すると言う考え方である。
以上からいまの国道7号8号の境界が新潟市だったのは、遠因としてこの歴史から来ているのではなかろうか?と考えている。(ちなみに近因は紛れもなく開港5港に指定されたほど新潟がその当時は重要な都市だったからだろう。)
なおこの考え方を(自称)第2次北国街道延伸(会津<越後>街道重複)と私は”勝手に”呼んでいる。
では北国浜街道という街道は無かったのか?
以上からこの見出しの疑問が出てくるのだが、結論からすると「存在した」ということをこの項で記しておきたい。ではそれはなぜか。
それは律令時代に突入する前の時代、この新潟・岩船周辺地域に「渟足柵(ぬたりのき)」「都岐沙羅柵(つきさらのき・他)」(ただ残念ながらこの2つの場所は特定できていない)「磐舟柵(いわふねのき)」なる城柵があった。
また西暦1300年代に岩船地域では各種争いが起きていたこと、またその後の永禄12年(1569年)に本庄繁長征圧するために上杉輝虎(謙信)陣営が岩船地域に拠点を置いたことが上杉書状に書かれていたこと。
さらに天正18(1590)年の直江書状によれば色部長真が上杉景勝の下で出羽仙北(せんぽく)郡在番を勤めた際、人馬、兵糧、物資は当地を経由したと記されている。
これらを見ると古くから交流があったことを示している。
(参考・引用先資料)
岩船港・湊町の歴史(新潟県HP)
ただ街道整備となるといつ頃からかは調べ切れていない。それでも全国の街道整備の発端は参勤交代からくるもの。おそらく西暦1600年前半にすでにこの街道が成立していたものと思われる。
しかし実際の参勤交代で使用した街道は出羽街道・米沢街道・越後街道を使用していたとされており、羽州浜街道含め浜通りルートは裏通りだったようである。そのことから新潟湊から羽州街道久保田宿までを北国浜街道・羽州浜街道(なお浜街道単体だと各地にあるので鼠ヶ関で呼び名を分けた)と呼んでもいいと思っている。あくまで山貴私論に過ぎないが。
したがって北国浜街道は存在していると思っている・・・ということになる。
なお出雲崎から新潟湊の間については北国街道と呼ぼうが北国浜街道と呼ぼうが越後(会津)街道と呼ぼうが、発する本人に任せれば良いと思っている。重複区間ということでこの場を片付けたい。
まとめを画像にしてみた。
まとめると・・・
1.北国街道が高田まで設定される。
2.出雲崎が佐渡渡航の港に指定→第1次延伸区間 ⇒これは正式に北国街道と呼んでも良い
3.新潟湊が栄えることの重要性並びに会津街道(越後街道)から寺泊・出雲崎へ繋ぐための街道整備→第2次延伸 但し会津(越後)街道と重複 北国浜街道と重複呼称は可
佐渡三道のひとつである会津街道(越後街道)から寺泊・出雲崎へ繋ぐため、並びに新潟湊が栄えることの重要性からの街道整備→第2次延伸区間 幕府の命名からは会津(越後)街道と呼称するが北国街道の記述もある 北国浜街道と呼称するのは人の好き好き
4.出羽への街道整備→鼠ヶ関までを北国街道拡大延伸区間=北国浜街道または浜通り 鼠ヶ関以北は羽州浜街道 ⇒従って北国浜街道=北国街道でもあるので北国街道と呼んでも可
一言とするならば・・・呼びたい名称で呼びましょうということになる(笑)
とりあえず善光寺街道からの流れは以上である。次からは北陸道からの流れを記すこととする。
(2019.9.1追記)
後追跡して調べて知り得た事をこの場にて記しておく。
先ほど「新発田城下及び新潟湊から出雲崎の区間について幕府の命名に従えば会津街道」と記した。しかし当該地域において会津街道と言われる事はまず無い。
またこのエントリー内で前記した新潟県史を引用文の通り「北国街道、北陸道、庄内道あるいは奥州道、浜街道とも呼ばれた。」通り様々な名称があった。
しかし当該する西蒲原地域において例えば赤塚地区に残る「赤塚村裁絵図」には北陸道と記載されており、明治期の「新潟市大字関屋大字全図」には北陸本道と記載されている。また明治44(1911)年に作図している5万分の1地形図にて、現在の県道新潟寺泊線相当に北陸道の記載がある。それを踏まえた上で江戸期の古文書には北陸道の他に北陸往還や北国往還の記述が見られるとの事。
以上並びに「北国街道=善光寺街道+北陸道」という観点からこのエントリーを記述している関係上、便宜的に北国街道と呼び今回は上記のような記述とした。
なお参考した新潟県の報告書によれば新潟湊以北の北国浜街道は浜通りとして編纂されている。
今回のエントリーに使用した参考文献
越後平野・佐渡と北国浜街道 24(池亨&原直史:編 吉川弘文館:出版)
新潟県史 通史編3
新潟県歴史の道調査報告書第9集「三国街道Ⅱ 北国街道Ⅲ」新潟県教育委員会・編