伊夜日子(伊夜比古)さまがどのようにして弥彦の地に来たのか・弥彦神社(前編)

前回の投稿にて弥彦神社以外の弥彦の魅力について記したが、そうは言っても弥彦の中心となるのはこの弥彦神社である。その弥彦神社について非常に興味深いことを見聞したのでここで触れておきたい。

弥彦神社についておさらい

彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社。式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。

彌彦神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

御由緒
彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。
よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。

(以下略)

弥彦神社HP御由緒より引用

伊夜日子大神 御名・天香山命
御祭神・天香山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し上げ、皇祖天照大御神の御曾孫(ひまご)にあたられます。父神は饒速日命(にぎはやひのみこと)、母神は天道日媛命(あめのみちひめのみこと)で、天孫降臨に供奉して天降られました。
天香山命が、紀伊国熊野神邑に御住まいの頃、御東征途上の神武天皇を始め皇軍将士は、熊野荒坂津にて敵の毒気により昏睡に陥りました。この危機を救うべく、天照大御神と武甕槌命は天香山命に韴靈剣(ふつのみたまのみつるぎ)を神武天皇に献ずるよう夢の中で告げられました。韴靈剣とはかつて武甕槌命が国土平定に用いられた威力ある霊剣です。夢告に従い天香山命が昏睡している神武天皇に韴靈剣を献じたところ、霊剣の威力によって神武天皇を始め皇軍将士は忽ち昏睡から覚醒し、敵を撃破されました。天香山命の韴靈剣献上の大功により危機を乗り越えた皇軍は、その後次々と蛮賊を平定し、大和国に入られた神武天皇は、橿原宮で初代天皇として即位されました。
神武天皇即位四年(西暦紀元前657年)、天香山命は越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(よねみずがうら・弥彦山の背後・長岡市野積)に御上陸されました。当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。
天香山命は越後開拓の祖神であり、またその御事績から、人々の魂・生命に溌剌とした活力を御授けくださる神様と言えましょう。

弥彦神社HP御祭神より引用

伊夜日子(伊夜比古)さまが弥彦の地に来た経路について

着岸地の渡来神伝承

 ここで注目したいところはこの部分である。

 神武天皇即位四年(西暦紀元前657年)、天香山命は越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(よねみずがうら・弥彦山の背後・長岡市野積)に御上陸されました。当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。
 天香山命は越後開拓の祖神であり、またその御事績から、人々の魂・生命に溌剌とした活力を御授けくださる神様と言えましょう。

弥彦神社HP御祭神より引用

 伊夜日子(伊夜比古)さまが越後の地に上陸したとされる場所は諸説ある。

  • 村上市の岩船神社
  • 新潟市西蒲区の船山神社(弥彦神社の摂社)
  • 柏崎市西山町の物部神社

 しかしこの公式ホームページの御祭神の項からすると米水浦が上陸の地とされているので、今回はそこから現在の弥彦に宮居をどのようなルートで移したかについてざっと話を進めてみる。

 さてこの米水浦(よねみずがうら)なる地、現在にすると長岡市野積にある立岩のことで通称太子岩と呼ばれる。太子岩=古縁起より祭神着岸の「太子之浦」より名称がきているとのこと。

 その米水浦・太子岩から程なくしたところにある小高い丘にまず居を構える。大宮神社がそれである。その着岸した地に住民に漁業・製塩・酒造などの技術を与えた話は先ほど引用した文の通りである。

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妻戸神社と桜井神社

 その次に居を構えたところは弥彦山の中腹、現在の妻戸神社である。

 この神社、岩がくり抜いてあるいわば口が開いているようなところに祠がある神社である。このことから口開け伝説なるものも存在するが今回は省略する。

 その次に居を構えたところは山を越えたところ、弥彦村麓のある桜井神社と言われている。ここの神社の行事として「オハマユキ」と言われるものがあり、着岸地である野積に出向き海藻を採って来てその海藻を神社に奉納する神事のことである。このことからも野積から神様がやって来たと言われるエピソードである。

 この後弥彦の地に宮居を構えるわけだが、では伊夜日子(伊夜比古)さまはどこからやって来たのかについては後編で記すことにする。

(参考文献)
越後一宮弥彦神社の研究(藤田治雄・編 新潟日報事業社・刊)

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