伊夜比古さまと伊夜比咩さまからみる渡来信仰・弥彦神社(後編)

 前編では弥彦神社がどのような経路を辿り弥彦の地に着いたのかを記して来たが、今回は果たしてどこから?やって来たのかという推察を前回同様「越後一宮弥彦神社の研究(藤田治雄・編 新潟日報事業社・刊)」を参考文献を基に記してゆく。

ヒコとヒメ

 弥彦神社(伊夜日子神社または伊夜比古神社)。字を見ると”彦”の文字が。別名では”日子”とも。
 彦・日子・ヒコ=すなわち男を指す意味の文字である。ということは祭神である「天香具命」さまは男神ということになる。祭神に関しては大屋彦命・大彦命とする説もあるがどちらにしろ男神であることは間違いないようだ。

 ということは男の対をなす女も存在しなければならないと思う。その考え方に対して藤田氏の著書によると、全国各地にヒコとヒメの名がつく神社は各地にあるそうだ。

 その中で伊夜日子(伊夜比古)神社のヒコに対し、石川県七尾市能登島向田町にある「伊夜比咩神社」がヒメの関係にある神社ではないだろうか?という説がある。(この説に最初に注目したのは歴史地理学者だった吉田東伍氏である。)

吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日(1864年5月19日) – 大正7年(1918年)1月22日)

日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。

吉田東伍 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

能登は「ヒコとヒメの交差点」

 この説の考え方としてヒコ(比古)とヒメ(比咩)がつく神社は伊夜比咩神社がいる能登国内に多い点である。詳細は省くが能登国内にある神社の中で

比古と付く神社・・・21座
比咩と付く神社・・・ 9座
比古と比咩が対になっている神社・・・5座
その他の神社・・・・ 8座

「越後一宮弥彦神社の研究(藤田治雄・編 新潟日報事業社・刊)」より引用

あるそうだ。どうやら近隣の国の中で比古と比咩が付いている神社は(国単位で1〜2例レベルの)数例しかない。まさに能登は「ヒコとヒメの交差点」と言ってもいいくらいである。

 また延喜式神名帳に記載されている神社のうち、比古と比咩が対になっている神社の位置関係を調べたら次のような結果が出たとのこと藤田氏は言っている。

同じ神社内に祀られているもの・・・2対
同じ郡にて分かれているもの・・・10対
別の郡に分かれているもの ・・・ 1対
 ※備後国三谿郡 知波夜比古
  備後国三次郡 知波夜比売
別の国に分かれているもの ・・・ 1対
 ※越後国蒲原郡 伊夜比古
  能登国能登郡 伊夜比咩

「越後一宮弥彦神社の研究(藤田治雄・編 新潟日報事業社・刊)」より引用

 なお別の郡に分かれていると記した「知波夜比古」「知波夜比売」については、距離もそれほど遠くなく位置的には同じ郡と見ても大差ない位置関係にある。となると伊夜比古と伊夜比咩の関係だけが極端に遠い距離の”対”な関係ということがわかる。ではなぜ遠い位置関係なのに対なる関係となっているかについて記してみる。

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潮の道より来たる

 そこで今一度、前回記した弥彦神社公式HPより引用した文を見てみる。

 (前略)
 当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。
 (以下略)

弥彦神社HP御祭神より引用

 つまりこれらの技術が能登の方からやって来たという説である。

 能登は5世紀代に土器製塩の技術が確立されたとされており、また造船技術も擁していたとされている。これらが6世紀代に七尾湾全域に拡大されたとしており、もともと能登沿岸に住み着いた民がそれらを従事していた。そこから海人集団が形成されたとのこと。
 以上から能登地方は北陸地方における技術の先進地だったとも言える。その技術の伝承が海人集団によって海から伝来したというものだ。造船技術さえ確立していれば歩くよりも早いはずである。

 また地形・地理・歴史的要素からも納得できるものがある。それは弥彦角田山塊の存在である。

 前記にて米水浦のことを述べたがこの地は弥彦山の端のあたりに位置している。また弥彦山の北側に位置する角田山麓に菖蒲塚古墳や山谷古墳などが存在し、このことが太古の大和の最前線であったとも言われている。

 また弥彦角田山塊が地形的観点上、海から眺めると航海上ランドマークとなっている点にも注目したい。そのことが弥彦神社の御神体が弥彦山であり奥宮が弥彦山頂であることから伺える。

 野積に上陸し声援や造船の技術を伝え、平野にて稲作・畑作を伝え、弥彦の地に居を構え、弥彦山頂より航海安全を願う、伊夜日子(伊夜比古)さまはそれら地域の神と航海安全の神として存在する。そう思うと海よりやって来た神様の論に一定の納得ができるはずである。

 (これらは写真を織り交ぜて紹介したかったが今回は文のみの紹介としたい。追って加筆修正や別エントリーにて紹介したいと思っているのでご了承を願いたい。)

 また今回の説は米水浦着岸上陸説より話を進めているが、岩船神社説や物部神社説であったにしても通じる説と思える。

まとめ

 今回はあくまで神話との擦り付けの話である。実際に神話が実在の歴史と合致しているかといえばそうではない。天地創造&天孫降臨と地学とは相反するものだからだ。
 しかし私が今回注目したかったのは「海からの渡来」についてである。文化は海からやって来たことについてである。

 この言葉をこれからのブログの投稿のキーワードとして進めていこうと思う。

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