山貴、的日本海観・雑感

 数回に分けて日本海側のことについて概略を記してきた。ただ記すには記してきたが私の心の中ではあるが少し話がとっちらかった印象と感じた。そのことから今回は時系列(?)流れ的なものを整理してみたい。

京・大坂と江戸→北国街道→越後

 まず日本海側の話に行く前に私の中でこんな思いがあった。

 東京一極集中に対する何か批判じゃないけど反抗的な思い。ただ大消費地であり大きな営みの地であり大見本市会場なんだという意味と捉えれば、大都会の存在自体は批判に値する問題でもないなと。

 その思いを抱きながら今回の件を追って行くうちに”五畿七道”という存在があるということを再認識した。学校教育で習ったはずなのに忘れていた項目だったんだなと。(この再認識は現在私が活動している西蒲区北国街道まちあるきガイドの絡みで北国街道の概念を自分に言い聞かせるためも併せている)

 ( )内の整理については1と2で、五畿七道については3で記したが、3から改めて1を読み直すことで佐渡の地が京(・大坂)からのアプローチ(北陸街道)と江戸からのアプローチ(善光寺街道)があ流ことに気づく。従って越後・佐渡の地は今日からも江戸からも関係性を気付くことができる可能性があることを認識した。

西蒲原地域を知りたければ能登へ行け!!

 西蒲原の魅力のひとつに弥彦(の地)も外せないだろう。

 それを踏まえて、次に陸上交通の北国街道に対し海上交通も発展してきた日本海側。ここでいきなり北前船の感想文を記す予定だったが、以前とある方から「西蒲原地域を知りたければ能登へ行け!!」の言葉を思い出した私は能登へ足を運ぶことに。

神道と仏教

 その道中に感じたことを含め、まずは神話の時代の話の中からとある方の弥彦研究の論述を引用する形で紹介した。それが伊夜比古&伊夜比咩編。

 伊夜比古&伊夜比咩編は日本海交流のテーマとしても非常に興味深く有意義なエントリーだったと思う。ただ日本海側を扱うなら出雲の大国主命と糸魚川の奴奈川姫についても紹介しなければならなかったのは少し反省点。これは今後の宿題としたい。

 そして伊夜比古(伊夜日子)の神である神道の次は仏教・浄土真宗について取り上げた。

 浄土真宗の蒲原伝播編を記した。また今回は取り上げなかったが、檀家数において新潟では浄土真宗が1位で曹洞宗が2位である。それらはなぜ新潟県に布教できたかという理由は伝播の経路を辿ればよくわかる。海上交流が成功した理由のひとつだからだ。
 また曹洞宗は貫主が海からやってきたとも言われる通り、現在の総持寺祖院と海とのつながりが深かった。浄土真宗も能登の方からやってきたルートのついては会場が大きく関与していた。

 また浄土真宗の伝播ルートと北国街道の経路図は似ているところがある。越前能登ルートは北陸街道と海上ルートだし、信州ルートは後に整備された善光寺街道の流れを踏んでいる。このことからも北国街道は江戸時代で一気に整備されたものではなく、その前から街道になる素地がすでにできていたことが親鸞聖人が坂東(関東)に足を運んだことからも伺えるものと認識できた。

 なお(2020.6.21の寄稿時点にて)曹洞宗の西蒲原・越後伝播についても宿題としたい。

そして北前船の感想文編

 北前船研究は多岐にわたり本腰を入れても細部に様々な話もあるので、あくまでも私の居所付近からの切り口による感想文にとどめておいた。しかし北前船文化が日本海側の重要性を大きく位置付けるものとしては紛れもない事実だし、その前の神道や仏教や北国街道を紐づけることで立証したかったことを記せたのは良かったと思う。ただ本当に立証しなきゃならないのなら今以上に資料編を充実しなければならない反省も生まれた。

 以上今までが過去・歴史から来る事実と雑感を述べた。まだまだ材料は揃えたい気持ちもあるし、多方面の角度を取り上げたので割った師の頭もついて行っていない感があるが、それでも日本海側の重要性を唱え始めるには十分と感じ次のステージへ進めた。

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