弥彦の魅力

 西蒲原の見どころのひとつとして弥彦が挙げられる。

 弥彦・・・西蒲原郡弥彦村。明治22年の町村制施行時に西蒲原郡は2町334村だったものが明治・昭和・平成の大合併後を経て弥彦村のみとなった西蒲原郡。そんな弥彦村は越後一ノ宮である弥彦神社の御鎮座地とともに弥彦温泉を抱える観光地でもある。

 そんな弥彦村で2019年7月6日(土)に新潟にあるまちづくり学校主催のブラニイガタ2019の第4回「神社がつなぐ〝弥彦愛〟とパワースポットをめぐる~五感でとらえる小さな村の深い魅力~」に参加してきた。

(参考資料)
ブラニイガタ2019@まちづくり学校

 またこのイベントの前に5月のゴールデンウィークに私自身で弥彦に行ってきたので、その写真も少し補足しながら弥彦について簡単ではあるが記してみる。

弥彦村

弥彦村のご紹介
弥彦村は、新潟県のほぼ中央部の日本海側に位置し、西は霊峰弥彦山(634m)を隔てて新潟市・長岡市と接し、東南は燕市、北は新潟市とそれぞれ肥沃な穀倉地帯を隔てて隣接しています。
古く神代(かみよ)の時代、天照大神(あまてらすおおみかみ)の曾孫の天香山命(あめのかごやまのみこと)が、日本海を渡り、弥彦山西側にあたる野積海岸(現長岡市)に上陸され、住民に海水から塩を作る方法や、網や釣針を使った漁法を教え、その後この弥彦の地に鎮座され、農耕技術など様々な産業の基礎を授けたと伝えられています。
命の去った後も、その子孫六代にわたって越後文化の基礎が作り上げられていったことから、天香山命をご祭神としている越後一の宮「彌彦神社」は、万葉の昔から「おやひこさま」の愛称で広く民衆から愛され、崇拝されてきました。
故に弥彦村は「越後文化発祥の地」と言われ、彌彦神社の門前町として、また北国街道の宿場町として人々が行きかい、賑わいのある町として栄えてきました。 明治維新後に出雲崎民政局の支配となり、明治12年郡区改正により西蒲原郡に属し、明治34年11月1日には弥彦村、桜井郷村、矢作村の三村を合併して新生「弥彦村」が誕生し、以後今日に至るまでほとんどその形を変えることなく、100余年が経過しています。
近年は、交通網の発達により時間、距離も大幅に短縮され、立地条件に恵まれて県内はもとより首都圏・関西方面との結びつきもより強くなり、新潟県内屈指の観光地となっています。
弥彦村は独自の歴史的・文化的背景を基に、個性ある村づくりに励むとともに、調和のとれた地域社会の創造と発展をめざしています。

面積 25.17㎢
南北 6.92km
東西 5.94km
人口 8,582人(平成22年国勢調査)
世帯数 2,586世帯(平成22年国勢調査)

弥彦村ホームページ弥彦村の紹介より引用

 JR越後線&弥彦線の吉田駅から弥彦駅に向かいほどなくすると西側を渡りますが、その少し先から弥彦村に入る。村役場は次の矢作駅のところにあり、駅周辺は燕市などのベッドタウン化しているほか小中学校がこの地にあり、生活する場での中心部となっている。
 その次の駅が弥彦駅だ。ここは観光地中心の場所。駅裏は住宅地となっている。

巡ったところ

ちなみに弥彦神社には行きませんでした(笑)

 弥彦村と言うと「越後一ノ宮 弥彦神社」がまず思い浮かぶだろう。しかしながら今回のブラニイガタではそこに行っていない(笑)ナビゲート役のガイドさん曰く「弥彦神社以外のスポットにも注目して欲しい」とのこと。

 弥彦神社にどうしても注目が行くためにそういう思いだったとのこと。回ってみてこの考えに納得である。

 まちあるきの面白さはメインストリームじゃないところを歩き発見を得ることなのですからね。

 では弥彦駅に降り立ち出発です。

弥彦駅の駅名標

弥彦公園

弥彦公園
 弥彦駅近くにあり、16万m2にも及ぶ広さがあります。滝や渓流、高台、トンネルなどが美しい調和を保っています。とくにもみじ谷の観月橋は昔の木橋を再現したもので秋の紅葉の頃は絶景です。ツツジや花菖蒲などがいたるところに植えられ、四季折々に美しい花が楽しめます。

弥彦観光協会弥彦公園より引用

 JR弥彦線の終点である弥彦駅のすぐ近くにある都市公園。
 ちなみに写真のトンネルは国登録の有形文化財なんですって!

 秋になると紅葉谷の紅葉が絶景です!ただ季節は初夏なので残念ですが(笑)

湯神社(弥彦神社末社)

 弥彦神社末社で弥彦温泉発祥の地と言われている場所に鎮座しています。別名石薬師様。

 弥彦公園から行けるのですが一山越える形になるのでいい運動になります。本殿の写真は掲載せずにぜひ運動をしてみてください♪(意地悪w)

上諏訪神社(弥彦神社末社)

 今回一番のロケーションの良さを感じたこの場所。この写真の右端に立っている気が御神木だそうです。諏訪神社らしく気が御神体なのですね。隣のカフェが気になります。

 なんかこのケヤキ(?)を見ると、となりのトトロの世界観を思い出します♪

親鸞聖人清水

 浄土真宗開祖の親鸞聖人が弥彦の地に宿泊したところ、水に苦労した歌人を憐れみ杖をついたところ水が湧き出てきたとされている清水。
 越後の地では親鸞聖人の7不思議があります。ここはその7不思議ではありませんが親鸞聖人の言い伝えが多いということはそれだけ敬意の念があるのでしょうね。

弥彦の蛸ケヤキ

弥彦の蛸ケヤキ(やひこのたこけやき) 県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)

弥彦神社前の大通りを西へ少し入った、弥彦神社末社住吉神社境内の小祠をおおうように立つケヤキの老木である。樹齢およそ800年以上、目通り周9メートル、樹高約30メートルで、蛸欅と呼ばれているように、巨幹から地上近くすぐに大枝が八方に広がり、壮観を呈している。
この住吉神社の現在の祠堂は、明治28年7月廃校の止むなきに至った明訓校の中庭に、同校の創立者大橋一蔵先生が奉斎して朝夕生徒に礼拝させた校内神社の祠堂で、同校廃校の際に氏子有志が譲り受けて現在の住吉神社の祠堂としたと伝わる

弥彦村ホームページ弥彦村の文化財より引用

 弥彦には数え切れないほど立ち寄っているのですがここは初めて訪ねました!
 結構な老木でしたね、保存状態を良くしないと・・・。

 引用文にも示した通り新潟明訓高校の発祥の地は弥彦なんですよ!これにも驚きです。

弥彦競輪場

 弥彦神社外苑に位置し、日本で唯一の村営競輪場。過去にG1である寛仁親王牌も開催された競輪場です。

 子供の頃良く連れられてきました。いかめしいおっさん臭が漂いつつもここで食べたホットドックや焼きそばや玉こんにゃくが美味しかったのをいまでも覚えてます。

 その弥彦競輪場ですが、特筆すべきは下の写真です。

 昔は弥彦神社競技場・・・つまり陸上競技場だったのです。日本初の400メートルトラックを擁した陸上競技場で、監修に嘉納治五郎先生も加わっていたとか。そういや競輪場も400メートルバンク・・・ふむふむ。

宝光院

 正式名称は真言宗智山派紫雲山宝光院。草創は建久六(1195)年と伝えられており、源頼朝発願により大日如来を本尊とし開基したと言われている。

 その後昔あった神宮寺をはじめとした4ヶ寺が集結し紆余曲折を経て現在の宝光院となる。その経緯から本堂横・この写真の正面に阿弥陀堂があり、弥彦神社神宮寺の本尊が阿弥陀如来だったことからその流れが集結した証が伺える。他に薬師如来•十二神将像•毘沙門天立像(多聞天説もあるが住職曰く毘沙門天らしい。宝光院700年前と一番古い仏像とのこと)があり、これまた4ヶ寺が集結した証が伺える。

阿弥陀堂から入り口を望む
芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の河」

婆々杉

蒼々たる婆々杉

弥彦の婆々スギ(やひこのばばすぎ)県指定文化財 天然記念物(昭和27年12月10日指定)

彌彦神社の北隣に位置する宝光院の裏山にある樹齢約千年の杉の巨木で、一般には婆々杉とよばれ、弥三郎婆さの伝説を伝えている。目通り周10メートル、樹高約40メートルで樹勢きわめて盛んである。 
【妙多羅天女と婆々杉伝説】
今から900年以上前の承暦3年(1079年弥彦神社造営の際、上梗式奉仕の日取りの前後について、鍛匠(鍛冶屋)黒津弥三郎と工匠(大工棟梁)の争いとなった。これに負けた弥三郎の母(一説に祖母)は無念やるかたなく、恨みの念が昂じて鬼となって、形相ものすごく雲に乗って飛び去った。それより後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山と、諸国を自由に飛行して悪行の限りをつくし、「弥彦の鬼婆」と世人に恐れられた。
それから80年の歳月を経た保元元年(1156年)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が弥彦の大杉の根元に横たわる一人の老婆を見つけ、悪行を改め、本来の善心に立ち返るよう説得し、さらに秘密の印璽を授け「妙多羅天女」の称号を与えたところ改心した。その後は神仏、善人、子どもの守護に尽くしたので、村人はこの大杉を「婆々杉」と呼ぶようになった。

弥彦村ホームページ弥彦村の文化財より引用

 宝光院さんの横を通って上がったとこにある大きな杉で、その内容は上記の引用文のとおりです。この場所、競輪場の横にあって子供の頃競輪場で退屈だった私たち兄弟を母親が連れてきては昼寝させた思い出が詰まった場所です。あの頃から風景が変わりましたがいまでも鮮明に思い出として記憶に残っています。

(この項の終わり)

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