木村花さんの死から思うこと:自殺私論(序)

 去る5月23日にプロレスラーの木村花さんが22歳の若さにして急逝した。原因は(これを記している5月31日時点では)詳しくは伝えられていないが、彼女が出演した「テラスハウス」の番組に1シーンの対して、番組を見た人のレスポンスが誹謗中傷となって彼女に降りかかった苦しみからによる自殺と言われている。

 ネットの記事を諸所検索すると「テレビ制作側の闇」とか「マスコミの闇」とか「マスコミはSNSだけに責任を押し付けて良いのか?」とか、はたまたゴシップネタまでといろいろ流れている。
 現に5月31日の時点の話だがテラスハウスの制作会社が制作会社主導で炎上目的で編集されたという記事がスポーツ紙から報道された。

(参考資料)
「テラハ」制作会社が“炎上編集”主導 トラブル、仲たがい強調…出演者からも疑問の声-スポニチアネックス

 ただその方面の所見はそちらを述べているサイトに任せたい。

 今回この場で紹介したいこと、つまり私が気になったのは「言葉」についてである。ということで「言葉」の観点から所見を記したい。

即時性と匿名性と逃避性は誹謗中傷に適したツール

 今回のこの事件はリアリティーショーを現実化認識・・・というかノンフィクションとして捉え、それが彼女の本当の性格なのだろうという世間の誤解があったことから始まったようだ。

 世界(特にアメリカ)のリアリティーショーは現実の部分と虚構の部分がスペクトラムに入り混じっているという話を聞いたが、この日本で作られたテラスハウスという番組はより現実に近いとも言われた。 その観点からすると「現実」と視聴者に思わせたことは制作側の狙いというか勝利だったのかもしれない。 しかしそのキャラクター性は虚構のものも強かったという報道も耳にした。本物と虚構がより分かりづらくなっていたようだ。
 木村さんはヒールプロレスラーであったことからテラスハウス内の役どころでもヒールの役柄を演じていたとのこと。しかし実際の木村さんは業界内の人間曰く「礼儀正しい人間・後輩として好かれていた女性」とのことなのだが・・・そんな事は世間一般人は知る由もなかった。

 ヒール役は所詮ヒール。したがって今回の悲劇の原因はヒールとして「映っていたもの」を「感情」や「第一印象」をオーディエンスが即時に投げつけたことにあると考えられる。その道具がSNSだ。特にTwitterは即時性があり匿名性が保たれていて直ぐに消えること(逃避性)ができるので誹謗中傷するに適したのツールである。

 今回の悲劇のきっかけは「コスチューム事件」と言われている。番組を見ていないのでわからないのだが「ヒステリックゴリラ」と称されるのだからえらい剣幕で怒ったのだろう。それが「感情」や「第一印象」をオーディエンスが即時に投げつけたことであり、その内容が直球ストレートだったのでは?と思う。

 しかしちょっと待て、オーディエンスは木村さんの感情に対して感情でレスポンスしたことしか世間に伝わっていないところが私には腑に落ちない。他の意見があっても良いのではないだろうか?

 (これらの事件がテレビ制作側によって生み出された炎上商法であるという疑惑は残るが、)それを差し引いて仮にノンフィクションだったとしても、うっかり洗濯をしたというような失敗は現実に起こりうる問題ではないだろうか? そこでそれらを目の当たりにして仮に「ヒステリックゴリラがなぜあそこまで怒ったのか?」という思考というものがオーディエンスには働かなかっただろうか?

(これがノンフィクションだったと仮定して)確かに木村さんの管理が悪かったと言えばそれまでなのだが、あのようにまくし立てるということは「何か理由があるはず」・・・と冷静になれば考えつくと思うのだが。

言葉の暴力を生み出した背景

 今回の一件をみて、直ぐに思ったのは各種の「いじめ問題」「ハラスメント」と非常に似ている感。特に「学校のいじめ問題」と印象が似ていることだ。よってたかって多数が少数を叩く、しかも匿名という陰湿な形で・・・。

 それを踏まえた上で尾木ママ(尾木直樹氏)が非常に興味深いことを文春オンライン上で記事を投稿していた。

「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」発言の真意―尾木ママ語る

文春オンラインの当該記事について

 最近のテレビ業界がネット環境に対し焦る原因にもなっていることだが、昨今のネット環境における即時性の有利さが際立つ時代になってきた。スマートフォンを持つようになってから更に手軽さも加わってきた。その中でミニブログと位置付けられるTwitterが流行ったのは、即時性という環境が好まれた背景から好まれたのではないか?・・・と想像できる。

 ただその即時性にも弱点がある。それは「正確性が薄いこと」と「記事内容の精度がそれほど高くない」ということ。またTwitterの弱点としては140文字という制限の中で表現しなきゃならないこと。従って「正確性が薄いこと」と「記事内容の精度がそれほど高くない」ことは同一と考えられ、語彙力も求められ確実に伝わることも求められている。
 余談ではあるが私は説明下手なのでTwitterで説明することを諦めている。

 つまりスピードを重視するあまりに「正確性が薄いこと」と「記事内容の精度がそれほど高くない」にもかかわらず、それが「人を傷つける刃物」にもなりうるということ。 逆に言えば言葉に重みを感じ、正確性や精度が高く、加えて多角的であればあるほど言葉の信頼度(重み)が増してくるというもの。

 そのことを踏まえながらリンク先の尾木ママの言葉を読むとある一面が見えてくるのではないでしょうか?・・・という意味で引用させていただく。

 その背景には、ネット社会の広がりと浸透がある。最近のいじめはほとんどがネット絡みね。SNSのスピーディーなやり取りが子供達の想像力をさらに衰えさせて、デジタル文字で「死ね」と言われる子の気持ちを想像できなくなってしまうの。ネットやSNSは便利だけど、いじめや攻撃のツールにもなりうる危険を、大人も子供と共に考えていかなくてはいけないわね。(尾木直樹氏 談)

「国語が苦手だといじめっ子になりやすい」発言の真意―尾木ママ語る 文春オンラインの当該記事より引用

それを踏まえて・・・

 兎にも角にも22歳というこれからの若き女性が自殺に追い込まれた。相当悔しかっただろう。退路があればどうにでもなったが彼女は「プロレスラー」として未来をかけていたので、未来をかける前から「プロレスラーの退路」などというものは作りようがなかった。ならば方法が見つからず自らの命を持って退路を歩くしかなかった。所詮それは彼女のささやかな抵抗でしかないにも関わらず・・・だ。とても悲しいことである。

 よく「死ぬくらいなら・・・」ということを語る人がいると思うのだが、それは思考能力が高く、幾つもの生きる道を知っており、人生を充実している人が発す非現実の言葉でしかない。「死」を意識したことがある人はそんなことは言え・・・仮に言える人間がいたとしても、私の口から発する勇気はない。

 今回この記事を紹介したのは上記に記した「いじめ問題」と似ているなと感じたことと同時に、「自殺」ということをこの投稿の後にもう1〜2回記したくなったからである。

 そのことについてはまた別エントリーで記すことにする。(続く)


 (追記)
 さて、東洋経済オンラインさんで私の言いたかった事を形に変えより深い記事を投稿されていたので紹介したい。

木村花さんの死が問う「虚構に踊る人々」の愚鈍 誰に強制されるでもなくスマホに呪詛を吐く :災害・事件・裁判 – 東洋経済オンライン

 そしてその記事の冒頭部分の文言が今回の背景として的を得ていると思う。

 言うまでもなく匿名で個人攻撃を行なったネットユーザーに最大の責任があるが、この問題の本質は、ローコストで人々の注目を集めて利益を上げたいコンテンツ制作サイドの強引な手法と、感情の拡散・増幅装置であるソーシャルメディアの特性が「最悪の形で」組み合わされて顕在化した悲劇という面がある。

木村花さんの死が問う「虚構に踊る人々」の愚鈍 誰に強制されるでもなくスマホに呪詛を吐く :災害・事件・裁判 – 東洋経済オンライン より引用

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