自殺を止めたいあなたの切実に願うその声は届いていますか?:自殺私論(前編)

「生きる事は死ぬ事と見つけたり」と考えられない当事者

 先ほどのページで「自殺して欲しくない」と、そのことは反対に「その声が届いていない」という矛盾なことを記しました。もちろんそれが「言うだけ無駄」でも言い続けることの大切さも存じています。むしろ言わなきゃならないでしょう! 無駄でも食い止める活動をしましょうよ!と言う考え方です。
 だが話を進めるためにここは一旦その話は置いておきましょう。続きを記します。

 さて、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とよく聞くかと思います。この一説は肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述した記録集「葉隠」の有名な一説で、「死ぬ気があれば生きることができるはず!」と説いたものです。(直訳は死んだ気になって取り組むと何事もうまくいくと言う意ですが)

 自殺を止めようとする人に説得し、その方が「生きる事は死ぬ事と見つけたり」と思い自殺を踏みとどまる・・・ことを説得する側は望んでおられるでしょう。そのことについて自殺防止のための活動をしているのですから。しかし現実はそう甘くありません。だって・・・

 あなたの話なんて聞くつもりは微塵もないからです。
 その時聴力という機能は停止しています。考える能力だってありません。

 死に急ぐ人はつまり死を覚悟した者。様々な選択肢を選んで様々考えて苦渋の決断として死を選ぶのです。死と言うものに向かって歩いている者なのです。周りなんて見られないのです。聴力と思考能力はないと言いましたが下手したら視力だって失っているのかもしれません。もう方向性は決まっているのです。

 この目線は自殺を覚悟した人でないと分かってもらえない感情です。純風満帆に人生を歩んできた人や強い心で立ち向かった人にはわからない感情とも言えます。心のどこかで儚げで無知で純粋でどこか頼りなくなんとか人生を歩んできた人だけどもう疲れたな・・・って人です。まぁそう言う人ばかりじゃないと思うけど・・・。

 だからなのかな、「生きる事は死ぬ事と見つけたり」とは思えないんですよね。

 ほほう、やけに自信を持ってそう言えるね?!

 これをご覧の方からはひょっとしたらこんな声が聞こえてきそうですが、それとは別に既に私の心を察している方もひょっとしているのかもしれません。お察ししている方へ・・・はい、あなたのそのお察しは正解です。

 私も死を覚悟したことがあるんですよ・・・死に損なったけどw

 まぁ死に損なったと言ったけど自殺行為まで行ったわけではなくて、死ぬ寸前でどんでん返しになったので・・・果たして本当に死にたかったのかどうかは今となっては微妙なのだが。。。

 あの当時は視聴覚などの外からの情報は入ってこない。従って思考能力なんて無く。宙に浮いている状態とはこう言うことなのかな?と言った感じでした。あの感じは体験したものでないとわからない超日常でした。もう体験したくないけど・・・。


(続きは次回にて・・・)

1 2

3

関連記事

コメントは利用できません。

ページ上部へ戻る