西蒲原西蒲原と言っているので、改めて西蒲原とは何かを記してみる

  • 2019/6/22
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Road to ” storyteller in NISHIKANBARA “

と(投稿時に)サブタイトルがついていこの場所。(現在は変わりましたが)

NISHIKANBARA=つまり”西蒲原”ということである。

以前に誇れる西蒲原を残そう→西蒲原再考についての補足の項で西蒲原郡について取り上げたのだが、今回その続編ということで”西蒲原とは何か?”を改めて記す。

前回のおさらい:西蒲原の定義

西蒲原郡ができたのは明治維新後

 もともとは7世紀以降に生まれた越国の中の磐船と渟足の2郡から成り立った越後国の前身。その後大宝2(702)年に越中国だった頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡を譲り受けて今の越後国のかたちとなった。
 (なお正確な沿革とその後の紆余曲折については割愛する。今回は判りやすさという点で記したのを注釈追記しておく。)

 蒲原=や葦が生い茂るっぱ

 と訳される蒲原郡(蒲原地方)。その蒲原郡の西側地域なので西蒲原郡である。ちなみに蒲原郡は東西南北中とあり、北は新発田市周辺・東は今の阿賀町全域・中は新潟市港南区秋葉区が中心(中央区沼垂までが中蒲原)・南は三条市や加茂市が中心の地域である。

 さて西蒲原郡はかの戊辰戦争から明治維新を経て新政府による廃藩置県が明治4年に行われ、その後の明治11(1878)年に地方三新法のひとつである郡区町村編成方が施行されまずは2町350村で発足した郡である。
 そして明治22(1888)年に町村制が施行することとなり、2町77村に統廃合(合併)されて西蒲原郡が再編成された。

 その頃からの町は今も洋食器の街で知られていると大河津分水のお膝元であり、三国街道の宿駅並びに北国街道横道の分岐点である地蔵堂(現在の燕市分水地区に存在)の2つであった。
 その後郡役所が置かれた巻村が町制に変わったのを皮切りに吉田・内野・曽根のそれぞれが町制を敷くこととなる。なお燕町が市制施行したり今の新潟市西区のほとんどの区域(旧黒崎町以外の部分)が新潟市に編入されたのは戦後のことである。

 ただ私が子供の頃はすでに燕市は市制を施行していたわけだが、学校教育では西蒲原郡と同じ枠組みとして勉強したので『燕三条』と言われるのは新しい枠組みの新鮮さと同時に、旧来の枠組みの認識からすれば違和感でしかないという重なったなんとも複雑な想いである。ただしあくまでこれは余談だが。

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昔の西蒲原郡町村図。

 ビジュアル的な観点からすればこの西蒲原郡町村図がわかりやすいだろう。

 以前そうだ、場を作りta……いや、作ろう!!の項、また誇れる西蒲原を残そう→西蒲原再考についての補足の項の時に取り上げた西蒲原郡町村図である。

 この図を見ると昔からの新潟市域(つまり古町や白山や関屋など現在の通称新潟島と呼ばれる地帯)も西蒲原郡の一部と見えるわけだが、この図の頃である明治33年9月の時点は既に市制施行し新潟市となっていたので当然西蒲原郡ではない。

 これについてはどうやら明治4(1872)年の戸籍法施工とともに、明治5(1873)年に大小区組合を設けたことが起因のようである。つまり旧第1大区(当初の新潟市)と旧第2大区と旧第3大区が西蒲原郡と区分されたため、新潟市と西蒲原郡は同じ区域としてみなされたようだ。もっとも北国街道からの交通の流れは西蒲原区域から新潟市へ続いた流れなので自然といえば自然だ。
ちなみにこの後、地方三新法の制定より旧第1大区→新潟区→新潟市・旧第2大区と旧第3大区→西蒲原郡となった。
(注:今回は分かり易さを尊重したのでこの表記とした。正確なものは多少違うが間違ってはいないのでこの説明とさせて頂きたい。)

今見える枠組みが昔からあったとは限らない

 私がこの図を見たとき”1時間”という時間があっという間に経過してもなお見入ったのはここだけの話である。いま見える地域の枠組みと昔からの地域の枠組みの違いがあることの再認識と、地域の今までの枠組みが実はこのような軌跡があったんだという感動と、今集落化しているところが実は一つの村だったんだという驚きがあったためである。そんな思いに至ったエピソードを2点ほど。

 今でこそ新潟駅周辺と古町地域は同じ新潟市中央区として違和感がなく、精神的距離も短いのだが、初代萬代橋は国道7号の流作場五叉路交差点から始まっていた。つまり現在の万代シテイや新潟日報メディアシップは信濃川だったのである。そこから古町方向を眺めた景色は精神的に遠いと感じられたはずだ。事実郡の境界は信濃川だった。

 上越新幹線に燕三条という駅がある。最近燕三条ブランドの確立・燕三条をひとつの地域に・燕三条を合併したらどうか?などの論が唱えられている。
 ただこの論に反対する意見もまた存在する。昔あった三条商人と燕職人の仲の悪さのことである。そんな古くからの歴史的背景もあるが、今回は認識の違いについてそれよりも現在に近づいた話をしてみたい。

 この地を通る上越新幹線が開通したのは昭和57(1982)年11月15日と今から遡ること約37年前、そこから7年遡る昭和50(1975)年頃の45年ほど前は街など構成されておらず周りは田んぼである。いわゆる農村集落が周りに存在するのみ。この頃の三条市と燕市の直線距離は約4〜5kmあったのでつながりは今よりも希薄だったのだと思われる。ひとつの構造物が地域を縮めた例である。

 こう見ると今見える枠組みや地域を学ぶには以前の枠組みの歴史的背景や地理的要素を振り返ることが重要に思えてならない。そのことを再認識できた図だったのである。

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