逆輸入!の真宗伝播:越後西蒲原における真宗伝播の流れ(前編)

 以前弥彦神社について「伊夜比古(伊夜日子)」「伊夜比咩」の関係性を能登との繋がりを記した。今回も同じ事柄について同じ神仏系で攻めてみたい。

 今回取り上げるのは浄土真宗。

 新潟県は浄土真宗王国である。最近のデータでないので実に申し訳ないのだが、昭和51年に駒澤大学文学部地理学教室の小田匡保氏の論文「新潟県における寺社の分布と地域区分」によると、新潟県にある寺院の約47%が浄土真宗・真宗系寺院なのだそう。
 もちろん現在は数値的に違うと思われるが、それにしても浄土真宗・真宗系寺院が多い。

 そこでどのように浄土真宗・真宗系が広まっていったかを調べてみたら実に興味深いことがわかったので、今回はそれを記すことにする。

 浄土真宗についても能登とのつながりが大きいが、越後おける真宗伝播について言えば能登オンリーよりも北国街道をカバーする動きの方が似ている。今回はその話から。
(注:真宗伝播とは浄土真宗が伝播したという意味。以降はこの言葉を使います)

越後における真宗伝播は主に2ルート(前書き)

 越後西蒲原地域における真宗伝播は主に2ルートある

  • 関東(坂東)から信州へのルート
  • 北陸道(越前・加賀・能登・越中)からのルート

この2ルートから連想するとなれば以前紹介した北国街道が想像できる。

  • 関東(坂東)から信州への逆輸入ルート=善光寺街道
  • 北陸道(越前・加賀・能登・越中)からのルート=北陸街道

 しかし街道整備する前にこのルートによる真宗伝播がなされていたということは、いわば北国街道の街道整備の源泉となったといえよう。善光寺街道についてはまさに街道整備の源泉であるし、北陸街道についても道として北陸道として既に確立されていた証拠にもなったと言えると思っている。

 そんな前置きをしたところで、北陸道ルートを記す前に今回は関東(坂東)・信州ルートについて先に記しておきたい。

まずは浄土真宗と親鸞聖人の概略

浄土真宗(じょうどしんしゅう)
大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である[1]。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させた。

浄土真宗 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

親鸞(しんらん、承安3年4月1日 – 弘長2年11月28日)
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
 (以下略)

親鸞 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<関東>二十四輩(<かんとう>にじゅうよはい)
浄土真宗の開祖である親鸞の関東時代における24人の高弟。また、彼らを開基とする寺院を指す。
 二十四輩は、全国に3巻現存する『二十四輩牒』により選定[要出典]されており、時代が下って親鸞の教えに背き誤った教義を広める者が増えたため、本来の教義を広め伝えるべく正しい教えを受け継ぐ直弟子を選出したものといわれている。数多い門弟から24人が選ばれた基準や経緯は不明な点も多く諸説あるが、いずれにせよこの24人が、関東における布教の上で重大な地位を占めていたことは間違いない。
 (以下略)

二十四輩 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

覚如(かくにょ、覺如)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺第三世。「大谷廟堂」の寺院化(本願寺の成立)に尽力し、本願寺を中心とする教団の基礎となった。 本願寺(浄土真宗)の実質的な開祖。
(一般に開祖は、親鸞とされるが、親鸞自身に開宗の意思は無く、本願寺成立後、覚如が定めた。)
 親鸞の末娘である覚信尼の子、覚惠の長男。母は周防権守中原某の娘。親鸞の曾孫にあたる。長男は存覚、次男は従覚。

覚如 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

是信房と善性房によって伝播の礎が!

 さて、関東(坂東)・信州ルート伝播について記すにはまず2人のキーパーソンを紹介しなければならない。その2人とは関東二十四輩の第10番是信房と第9番の善性房である。

 是信房は南部(今の盛岡県を中心とした地域)に陸奥(盛岡)本誓寺を開創し東国布教の礎とした立役者(是信房自身の墓所でもある)。
 またその前に最初に立てた寺院として信濃の松代本誓寺を開創し信州における真宗布教の礎となった場所である。

 次に善性房。親鸞聖人の居所だった稲田の草案の正当後継(稲田九郎頼重が開創した西念寺が正統後継という説もあり)し、浄興寺を開創したと言われている。

増殖する浄興寺系寺院

 その浄興寺だが、開創後に系統が2つに分かれる。

 ひとつは善性房が開創したと上記した浄興寺自体が信濃国水内郡長沼(現長野市長沼地域)に移転するもの。後に越後国高田(現上越市)に移転して今に至るルート。
 もうひとつは下総国磯部に勝願寺を開創したルートである。

 なお勝願寺自体はその後信濃国水内郡南条(現長野市南条地域)に移転したとされており、その後越後国高田(現上越市)に移転した後”越中・井波瑞泉寺”の本体が東本願寺に転派したため、残った西本願寺の流れが高田で合流し高田瑞泉寺となる。(この件についてここでは省略する。)

 しかしこの勝願寺ルートも上記開創後に系統が2つに分かれる。磯部勝願寺の流れを受け継いで信濃地方にて開基した磯部六寺の存在である。
 また磯部六寺の中でも願生寺からの流れと笠原本誓寺の流れの2ヶ寺が後に高田に移転する。

 ちなみに前者の願生寺は前出した高田浄興寺と宗義論争で同系列の内輪揉めをしてしまうエピソードがある。この衆議論争に負けてしまい途中紆余曲折を経るが現在は次号も復活し今に至っている。

 一方笠原本誓寺は元々真宗寺と次号を名乗っていた。しかしこのお寺は蓮如上人ゆかりの寺で蓮如上人が訪れた時に本誓寺と寺号を改称したという。また上杉謙信ゆかりでもあり、上杉謙信に協力をしたことで高田に招かれ寺を移転したという。

 このように信州や越後高田に継承分派して行くうちに寺が増殖し、それが中本山や本寺となって信州が信濃川を伝って末寺開創したり、高田から北陸道を使って末寺開創することで信州伝播がなされたようである。

 (なお開創後人々に根付き西蒲原地域の近世村落の成立も関係しているが今回は省略する。)

親鸞聖人は越後で布教していない?

 このような経緯で関東(坂東)・信州ルートから真宗がやってきたのだが、それ以前に蒲原平野寺院にとっての中本山や本寺がある越後高田はそもそも親鸞聖人ゆかりの場所。

 親鸞聖人と越後との関わりといえば法然聖人とともに吉水教団時での布教活動により受けた承元(建永)の法難より受けた越後への流罪が思い浮かぶだろう。北陸道を経由して現在上越市の居多ヶ浜に上陸し、五智国分寺竹之内草庵・竹ヶ前草庵に居を構えていて、妻となった恵信尼とともに暮らしていた。

 したがって新潟県に所縁があるので新潟真宗王国は親鸞聖人が建てたと思われやすい。七不思議含め親鸞聖人にまつわる話が多い。
 また新潟市中央区にある蒲原浄光寺はもともと真言宗寺院だったものが親鸞聖人が泊まったことから改宗したとされている。また蓮如上人がその後訪れて歌を詠んだとされている。

 このように親鸞聖人ゆかりも多いのだが実際に真宗王国となるほどの伝播はこの時代はされていない。なぜなら親鸞聖人は越後の地で教化・布教活動をおこなていないからだ。罪が解け関東に移住し稲田の草案で教化・布教活動を行ってきていたからである。

 したがって真宗や越後高田には年代的に上杉謙信の時代までに移転してきた寺院が多く、その辺りから真宗王国越後新潟が形成されてきたのが真宗伝播の本筋のひとつなのである。

わば関東から浄土真宗が逆輸入してきたのである。

終わりに

 今エントリーは以上である。
 今回は関東(坂東)・信州ルートを記したので次回は北陸道(越前・加賀・能登・越中)ルートを記してみたいと思う。


(今回の参考文献)


越後における真宗の展開と蒲原平野(田子了祐:著 出版社:考古堂書店)

なむの大地 越佐浄土真宗の歴史 復刻版(新潟仏教文化研究会:編 出版社:考古堂書店)

越後の親鸞―史跡と伝説の旅(大場厚順:著 新潟日報事業社)

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